先日のGW帰省の際に、初めて『ひめゆりの塔』平和記念資料館へ行ってきました。
生まれ育った故郷の歴史。『ひめゆりの塔』は沖縄本島の南にあり糸満市摩文仁と呼ばれる地域にあります。ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒隊に向けられた慰霊碑。沖縄戦の「沖縄陸軍病院」として当時使われたガマといわれる自然壕の跡地に建てられています。沖縄戦最後の激戦地とも言われた場所です。いつでもと行こうと思えばいつでも行けた距離なのに、今になってようやく行くことができました。
ひめゆり学徒隊と沖縄戦
昔、沖縄には多くの子女が憧れる沖縄師範学校、沖縄第一高等女学校という学校がありました。通称『ひめゆり』の愛称で知られていました。通っていたのは13歳〜19歳。純粋に勉学に励み、少なからず夢をもち中には将来教師になるために通っていた学生達。『ひめゆり』に通う生徒と教師らはいつしか沖縄戦で日本軍の看護従事者として命じられます。これが『ひめゆり学徒隊』なのです。
彼女たちは銃弾の飛び交う中、多くの負傷した兵士を寝る間もなく看病することになります。食料も水もおろか、十分な治療薬もない中の看護は、まさに生き地獄だったそう。純粋に学び多くの希望を抱いていた女学生たち。その夢は、沖縄戦によって過酷な労働を強いられ、儚くも奪われてしまったのです。
日本人すべての人に知っていて欲しい沖縄戦が激戦地になったわけ。
米軍54万人 日本軍13万人
第二次世界大戦末期。この数字からもわかるように日本は負け戦になることが分かっていた。
米軍の本土上陸を恐れた日本。『本土決戦』を先延ばしにする時間稼ぎの為に沖縄に日本兵を送り沖縄戦に持ち込まれたという話。本格的に沖縄戦が始まる前、そのことを知らない沖縄の人々は一時、安堵したそうです。それは多くの日本兵が送り込まれたことが住民を守るために送られた兵士と聞いていたから…しかし実際には、住民も守れずたくさんの犠牲者がでました。沖縄戦は3ケ月にも及んだ激しい地上戦、犠牲者の数は20万人。沖縄の人口4人に1人が犠牲になったといわれています。その中でも、沖縄県の住民の犠牲者は12万人。日本軍、米軍の兵士よりも多い人が犠牲になりました。
1945年(昭和20)年4月1日に沖縄本島の中腹にある読谷村に米軍上陸。そこから沖縄戦が本格的に開始。約2ケ月にも経つころには、日本軍の指令が置かれていた首里城付近も米軍に追い込まれていた。ここで降伏していれば、多くの住民や兵士の命を落とすことはなかったと言われています。しかし日本の司令軍は首里からの南に司令部を移します。そのことによりさら激しくなった戦争。そこからまた多くの住民が巻き込まれました。兵士、住民、学徒隊もたくさんの犠牲者がでてどれだけの人たちが泪を流し傷付いたのでしょう。
まとめ
このひめゆり平和祈念資料館では、ひめゆりの子らの紹介とともに、当時の沖縄戦の様子が写しだされています。直視できないほどの戦争の悲惨さ残酷さを感じます。
沖縄には『命どぅ宝(ぬちどぅたから)』という言葉があります。それは、命にかえられないほど大事なものはないよ。だから命を大事にしようね。という先人の教えです。
知れば知るほどやはり悲惨な沖縄戦。大人になってから改めて感じたことは、子どものときに感じた思いと違い、とてつもなく衝撃的でした。深く心にささる思いがありました。今はリゾート地と呼ばれる沖縄ですが、多くの観光客にも見てほしい。平和が揺らいでいる今、このひめゆりの地から聞こえてくる平和の大切さ、命の尊さをぜひとも多くの人に知ってほしいと思います。
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